「因習」は「束縛」の一種ですが、「価値を守り育てる事がない」というのが最大の特徴です。それは「束縛の理由と向き合うことを許さない(または放棄する)」故の結果です。
言い方を変えると、「因習」に固執する者にとっては、積極的な行動により価値が守られ、育つような事象が存在することは「むしろ困る」のです。それは、己の保身を優先して、本質的な価値と向き合うことをサボタージュしたという証左になってしまうから。
それを誤魔化すために便利なのが「先例」という言葉です。
本来「先例」という言葉には「以前に行われた事があった」という意味しかなく、本当に大事なのは「〝それが行われた時代状況において〟どのような役割を果たしたか、また、果たせなかったか」という部分です。
先例第一主義は「〝権力者に使われる者〟が、責任回避のために使う理屈」です。嫌な感じに響いてしまうのを承知で言いますが、「悪い意味でのサラリーマン根性」の最たるものだと私は思っています。
倉山満が振りかざすような「先例」は、(これも、めっちゃ嫌な感じに響いて批判されるの承知で言っちゃえば)「疲れ果ててはいるけれど、現状を打破するような気概を持つ事もできないサラリーマンが、自己慰撫のために消費するのに丁度よい程度のモノ」でしかありません。
それは言わば(面倒なコミュニケーションの必要も、性病や妊娠の心配もない便利な)「性器をリアルに型どった自慰グッズ」と言えるでしょう。
だけど、だけどですよ。「時代を動かし、価値を生む」事が使命である政治家が、そんな「一人遊び」に籠絡されているとしたら、それってどうなんでしょう?
政治家とは、社会と全力で交わった末に生まれたもの(施策)を、己の存在をかけて育てて行く事が、最大の命題となる存在なのではないでしょうか。
すでに「因習」と化している価値観を、「先例」という糖質でコーティングしたものに幻惑されるのは、政治家、または言論を軸に社会活動する者にとって、非常に「恥ずかしい事」です。
しかし、「目の前の甘味に翻弄されていた自分に気付いた」なら、それを冷静に振り返る事は、この上ない濃厚な価値が存在します。
「先例」を軸として〝男系男子絶対〟にハマってしまった方、もう一度、芯の部分と向き合い「自分を一番自由にしてくれる束縛」とは何か、じっくり向き合ってみませんか?